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2019.11.8
2019.11.8
この記事は、歴史を軸にした各種勉強会やWeb放送への登壇、時事問題の解説でご活躍されている李東潤さんと、BraveAnswerを運営するアクトデザインラボ社代表の和田宏樹による対談をまとめたものです。
今回は「教育」をテーマに対談して頂きました。
「教育」という言葉は誰しも耳にしたことがあると思いますが、その意味について、深く考えたことはあるでしょうか。
実はこの「教育」という言葉と実際の教育状況には、ある構造上の矛盾があるのです。
教育とはどうあるべきか、その本質を探ります。
1983年生まれ東京都在住。青山学院中等部・高等部卒。慶應義塾大学総合政策学部にて、国際政治学を専攻。卒業論文で学部優秀論文賞(SFC AWARD)受賞。2006年住友商事に入社し、海外駐在を含めた実務経験から様々なビジネスの知見を得る。現在、歴史を軸にしたコンテンツ作成者として活躍中。冷徹な分析力で現代社会とビジネスを診断する。
1984年生まれ。埼玉県立川越高等学校、早稲田大学社会科学部卒業。リクルート、グーグル日本法人を経て2016年に独立。アクトデザインラボ社代表。
早いものでもう3回目。今回もよろしくお願いします!
お願いします。
今日は「教育」がテーマです。
早速ですけど、「教育」って何でしょうね。どういうイメージを持っていますか?
まぁ、漢字から考えると、「教え育むこと」ですかね。
その主語は誰ですか?
主語?「教え育むこと」の?
誰だろう。親とか先生とか?
そうですね。
この場合の主語は、親や先生など、提供者側ですよね。これらを主語にした場合は、「教育」は「(親が)教え育む」という能動態の言葉になります。
じゃあ、子どもを主語にするとどうなるでしょうか?
うーん、「教わり育まれる」とか?
受動態だ。
そうなりますよね。教わるとか育まれるとか。
子どもを主語にすると、教育という言葉は受動態の言葉になるわけなんですね。教育を受ける側を主語にすると。
でも、「教育」という言葉を使う時の主語って、ほとんどの場合、提供者側を主語として想定しますよね。
確かに。「子どもが教育される」っていう使い方はあまりしないですね。
つまり「教育」という言葉は、それ自体が能動的な意味を含んだ言葉なんです。
「教育が大切だ」って言っている人は誰かと言ったら提供者側なわけですから。
子ども自身が「教育は大事」とか言わないですもんね。
そう、そうなんですよ。実はこれが重要なんです。
「教育は大事」って言っている人と、教育を受ける人が別なんですよね。
「教育は大事」と言っている親や先生はその教育を受けるわけじゃないですね、確かに。
そう。ねじれてるんですよ、構造が。
だからこそ、いまいち親のメッセージとか熱意が子どもに届かないんです。
親は教育が大事だって言っているのに、その子どもは、「退屈だ」とか、「教え方が悪い」とかね。「あの先生について行っても仕方ない」とか。何かしら言い訳をしようとする。
そういう構造になっているんですね。どうすればいいんだろう。
ちょっとベクトルを変えてみましょうか。
子どもが誰かに向かって「あなたが私を教育して」とは言わないですよね。反対に親が子どもに向かって「ちゃんと教育されなさい」と言うこともないと思います。
それは言わないですね確かに。
親が子どもに言うとしたら、「勉強しなさい」ですよね。
「勉強しなさい」ですね。
「教育されなさい」ってなんか洗脳みたいで怖い。
「教育されなさい」だと、子どもが自分の頭で考えるっていうイメージはないですよね。受動態の言葉ですし。
ただ実は、勉強には「強いる」という字が使われています。強制の言葉ですね。
例えば就活で「あなたは学生時代に何を頑張ったんですか」と聞かれて、答えが勉強だけだったら、なんか固そうなイメージありますよね。遊びがないと言うか。
確かに。
親もガリ勉みたいな子どもは好きじゃないんです。
子どもにどういう風に育ってほしいか聞くと、だいたいガリ勉には育ってほしくないって言うと思います。
なんとなく、コミュニケーションが上手くなくて人の気持ちがわからない、勉強しかできないイメージがありますよね。
「ガリ勉」という言葉はなんとなくそういうイメージですね。
お花を見ても、「綺麗だね」とか思わないで「お母さんあれはね、お花じゃなくてユリ科のなんとかって名前だよ。学術用語では…」とか言う子には育ってほしくないわけです。
つまり、親は「勉強しなさい」と言っていながら、ただ受動的に膨大な知識を身に着けてほしいわけではないんですね。
確かに。お花を見たら綺麗と思って欲しい(笑)
教育するって、子どもから見れば受動的な言葉で、主体的に学びに行く姿勢が含まれていないですよね。だから、教育しても結局子どもは何も手に入れない。
でも親としては、子どもに受動的でいてほしくない。
こんな矛盾が、「教育」という言葉にはあるわけです。
親が思う教育でやってほしいことは何かって言ったら、子どもが主体的に何かを学ぶことなんです。勉強ではなく、学んでほしいんですよ。
でも、受信の仕方とか授業の聞き方とかって授業はないわけです。
例えば、ただ聞くだけで本当にいいのか、ノートをきちんと綺麗にとることが正しいのかをテーマにした授業とか。
受信の仕方がわからないと、主体的に学ぶのって難しいですよね。
確かにそうですね。「授業の聞き方」って授業あったら聞いてみたい。
ちなみに、李さんはどうやってとっていました?ノート。要点だけメモするとか?
僕は高校生の頃はノートとっていなかったですね。友達にテスト範囲の部分だけコピーもらっていましたけど。
え、とっていなかったんですか?
ノートは、なぜとるのかって言ったら、記憶を呼び起こすためだけなんですよ。テストは基本的に教科書に書いてあることしか出ませんでしたから、自分でノートをとる必要はなかったんです。
ただ、大学に入ると逆にノートをとる必要が出てきました。なぜなら、大学の授業は覚えることが目的ではないからです。
大学では何を目的にノートをとっていたんですか?
必要なキーワードを拾ってくるためにノートをとっていました。論文を書いたりするときに必要ですからね。
これって、教育されているというよりは主体的に学んでいますよね。友達のノートをコピーしても、必要なキーワードはわかりませんから、自分で必要なキーワードを拾わなければなりません。それを使わないと論文が書けませんので。
教育ではなく、学ぶことが大切なんです。
主体的に学んで欲しいというのはわかるんですが、そもそも「学ぶ」ってなんですかね。
いい着眼点ですね。
「学ぶ」とは「まねぶ(真似ぶ)」のことです。「まねぶ」が歪んで「学ぶ」になりました。
私もそれは聞いたことあります!改めてその意味を考えたいですね。
よく、子どもが何かを学ぼうとするとき、親は成功者の体験談とか、「◯◯くんのことを見習いなさい」とか、モデルに沿って教えますよね。
「見習いなさい」って、「真似しなさい」ってことなんです。でも一体何を真似すればいいのかって、子どもはなかなか気づかないですよね。
だからこそ、「どうやって授業を受けたらいいの」っていう、授業の受け方講座、つまり学び方講座は行ってもいい。
学び方講座かぁ。
例えば、「あいうえおかきくけこ」っていうひらがなの順番、実は様々な言語の影響を受けて生まれたと言われているのですが、ご存知でした?
え、そうなんですか?
諸説ありますが、五十音の順番は中国語とサンスクリット語が影響していると言われています。
かつて中国では、「反切(はんせつ)」という方法で漢字の発音を示していました。
2つの文字の子音と母音を組み合わせて、漢字の発音を表現したんです。
これを日本語に応用すれば、「な(na)」行の「お(o)」の段は「の(no)」となります。これも、子音と母音の組み合わせですね。
おーなるほど!
サンスクリット語は、子音が「あかさたなはまやらわ」母音が「あいうえお」の順番に並んでいます。
中国語の反切と、サンスクリット語の語順が合わさって今の五十音順になったということですね!
そういう説があります。ここから言えるのは、「他の視点がないと真似しようがない」ということです。お手本を見て、そこから体系立てていかなきゃいけない。
中国語とサンスクリット語がなければ、五十音を今のように並べる視点はなかったわけですから。
こういう風に、何かを学ぶ、何かに倣うという文脈って非常に重要なんです。
「守破離」の話に近い?
そうですね。「守破離」はもともと武道や茶道の習得プロセスを表した言葉ですが、何かの創造や個人スキルの向上過程にも転用されています。
まずは型を「守」って修行し、次に自分に合った型を模索して既存の型を「破」り、熟練すれば型から「離」れて自由自在に操れるようになる。
まずは守るためのお手本、つまり他の文脈や視点が必要なんです。お手本となる他の文脈があって初めて「学ぶ」ことができる。
均一的な教育をしたり、ただ覚えるということを繰り返していくと、そういった「学び」って生まれてこないですよね。
だから最初に「真似をする」が必要なんですね。
そう。真似をすることが、主体的に学ぶ第一歩なのです。
「教育」ってさっきも言ったように「提供する大人側」が使う言葉ですから、子どもにとっては受動的なものなんですよね。
教育システムっていう言葉も同じで、それを受ける子どもたちが主体的に自分で学ぶ、自分で習うんだっていう意思がないと上手くいかない。
じゃあどうしたら学ぶのか。それには、「憧れる、かっこいい」という動機が必要です。
ああ、確かに。憧れてる人の行動や思考って、つい真似したくなりますよね。
そう、真似したいって思わせたら勝ちです。
そうすれば、どうやったらそれになれるのかを子どもなりに考えるようになります。教育システムや何かのツールの問題じゃないんです。
ではここで質問です。例えばサッカー選手に憧れている子どもたちがいて、かっこいいからって、全員サッカーが上手くなるでしょうか?
それは…上手くなるとは限らないですね。
ですよね。逆に、憧れている人に比べて自分があまりにもできなさすぎて挫折するって事もあります。
例えば楽器。ピアノ弾けたらかっこいいなと思うわけですよね。それでピアノに触れてみたりして、思ったより難しくて、そして挫折してしまうわけです。
でも、確かにその子はピアノに興味があったし憧れていたはずですよね。なぜモチベーションが折れてしまうのでしょうか。
うーん。思っていた以上に難しいっていうのがポイントな気がする。1歩目からハードルが高すぎたから?
そうですね。あまりにも遠いところにはじめの1歩で到達しようとすると、当然、歩幅が足りずに落ちてしまう。
なるほど。
子どもによって、そのジャンルの中での歩幅は違いますから。例えば音楽が得意な子は、音楽での歩幅がすごく広い。最初から広く長く歩幅を取れるんです。
でも、最初からそういう子ってあんまりいなくて。野球でも、ボールを投げる方法が分からないって子もいるし、肩や肘、手首の使い方が分からないから、どうやってリリースしたらいいか分からない、っていう子もいる。
そういう子はどうしたらいいんだろう。歩幅を小さくしていく?
そうですね、一個一個学んでいくしかないですね。
幅を短く刻んであげることと、歩幅を合わせてあげることによって、興味を引き出すことができます。
じゃあ次はどうしたら1歩を踏み出そうと思ってもらえるか、ですよね。闇雲に踏み出させても歩幅が足りなかったら落ちちゃいますから。
そうなると子どもは挫折感みたいなものを味わって、やりたがらなくなってしまう。
1歩目からの歩幅の調整をしてあげられる人って誰だろう。 教師とか親とか?
歩幅の調整をしてあげられるのは親でしょうね。ずっと見てなければいけないので。
「親」という漢字は木の上に立って高いところから見ている、という形をしています。子どもをずっと見て、得意を伸ばして、苦手を減らすのも、親の役割の1つです。
一番わかりやすいのは食べ物ですね。嫌いなピーマンをどうやって食べさせるか、親は一生懸命考えるじゃないですか。ピーマンを細かく刻んでハンバーグに入れたら食べられる、とかね。
そうやってその子に歩幅を合わせてあげる。そうすると、ピーマンって意外といいじゃんってなるかもしれない。
なるほど。1歩が遠いときは、親が歩幅を近づけてあげることが大切なんですね。
そう。歩幅を合わせて導いて上げる必要があるんです。
導く、ですか。
歩幅を合わせることについてもう少し考えてみましょうか。
例えば、「陸上のウサイン・ボルトを目指したい。足が速くなりたい」と言っている子どもがいるとします。
いい目標。
その子に歩幅を合わせて導くためには、その目標について色んな抽象度から深堀りしてみる必要があります。
抽象度を高くしてみて、「”なりたい”ってどういう意味だろう」「足が速くなりたいってどういうことなのかな」とか。
大人にとってもちょっと難しい問いですね。
少し抽象度を下げて、マラソンなのか? リレーなのか? それとも何らかのスポーツで輝きたいということなのか。
もしかしたら100メートル走じゃなくて、サッカーとかでもいいのかな?とか。
そうやって、抽象度を変えてあげる。子どもが本当に行きつきたいところへ導いてあげる。それが歩幅を合わせるということです。
なるほど。抽象度を変えて歩幅を合わせることで、子どもが主体的に学ぶようになると。
大人が一方的に「教育」していても上手くいかないんですね。
教育って答えがないですからね。色々な言い方ややり方が当然ある。これが正しい教育だっていうのは何一つないんですよ。
とにかく歩幅を合わせてあげることです。そうすれば、親が適切なところにブリッジをかけてあげられる。
そうすると今度は子どものほうから自発的に、「これが足りない」「あれをこうしてほしい」とか言ってくれるようになりますよ。
親がブリッジをかけてあげても、子どもが歩み出さない場合はどうしたらいいですかね?
それは、ゴール設定の仕方と歩幅の設定にキーがあります。
歩幅を短く刻みすぎると止まってしまうんです。何故ならつまらないから。足が止まって仕事をやめてしまったり、親が考える道に行ってくれなかったりするのもそれが原因の可能性があります。
一歩の歩幅が近すぎると止まってしまうんだ。
そうなんです。これが歩幅の設定です。
ゴールの設定は?
「なぜ自分は子どもに対してそっちに行けばいいと思っているのか」を親自身も考える、というところですね。
時代もいろいろと変わってきている中で、親の価値観で物事を判断して、本当に教育はうまくいくのか、ということです。親が「教育する!」と捉えてしまっていると、親が責任を持ちすぎてしまう。
つまり、子どもの人生に親が干渉しすぎちゃうんですよね。
親が考える道が子どもにとって正しい一本道なのかはわからないですからね。
そういうことです。
だからこそ、ゴールの置き方と歩幅の設定は考えた方がいい。
繰り返しになりますが、親はこうした方がいいと思っているけど、そもそもなんで子どもに対してそっちに行ったらいいと思っているのかを考える必要があるんです。それが本当に正しい一つの道なのかどうか。
確かに、歩幅を合わせようとするあまり、ゴールを勝手に決めてしまって子どもに干渉しすぎるような事態は避けたいですね。
『国家の品格』の著者である藤原正彦先生は、「国語教育絶対論」というのを唱えていますよね。日本において、ひらがなやカタカナは強制して勉強させられる。
そういう強制って必要なんでしょうか。
さっきの話だと、道を決めつけて干渉しすぎるのは良くないということになるので、強制はよくないって話になるような。
例えば、子どもが兄弟に対して悪口を言ったら、理由を聞くより先に叩いて強制する方がいいのか、とか。
それは論語や漢文の素読、古文の暗記と似ていますね。
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす』
当然、子どもが読んでも意味なんてわからない。
でも、意味がわからないからって読ませる意味がないのかというと、そうではありません。
意味が分からなくても読ませる事が大切です。最初に種を与える事が大切。だからそういう意味では、強制って必要ですよ。
興味を持たせる、という意味で?
そう、興味を持たせる。
祇園精舎ってこういう漢字書くんだ、祇園ってどういう意味? とか。興味が幅広くなっていくんです。
最初に種を与えるという意味で、強制って結構必要だと思います。
さっきの例で言えば、「なんで悪口を言ったらだめなんだろう」という興味につながる。もちろん例え話であって、大人が子どもを叩くのはだめですけど。
興味の種を与えるという文脈では強制はありなんですね。
強制はありと言っても、その伝え方は考えなければなりません。
例えば道徳の部分。なんで人を殺しちゃいけないのっていうところはきちんと教えないといけないですね。
僕達は人を殺しちゃいけないっていう脈絡の隣で、蚊を叩いたりしているわけです。子どもからすれば、なんで人と動物・虫は違うのってなる。
そうですよねえ。
良い悪いをちゃんと親が教えなければいけない。向き合わないといけない。二段論法や、コウノトリが運んでくる方式(編集部注:赤ちゃんはコウノトリが運んでくると教えること)、赤ちゃん言葉なんかを使うのはやっぱり良くないですよ。子どもだって敏感ですから。
論理的な矛盾を親が提供し続けるのはいけない。論理破綻させるようなことを親は一切させちゃダメです。
赤ちゃん言葉も、言葉遣いは人に合わせて違うようにするんだよっていう文脈も押さえながらやるんだったらいいですけど。
何度もいいますが、叩いたりするのは絶対にダメです。それは最終的に「気に食わないことがあったら人を殴っていい」というメッセージになってしまいます。
子どもを殴りながら言う理屈なんてないんです。滾々と諭すしかない。
…うちの子たちにどう教えればいいんだろ。論理的にはすごくよく分かるんですけど。
子どもがやってはいけないことをやりそうな状態に対して、緊急避難をする感じが毎日起きてるんですよ。今は1日3~4回ぐらいありますね。なんでそんなことやろうとするんだみたいな。
もちろん叩いたりはしませんが、やってはいけないことをやってはいけないと論理立てて説明するのは難しいです。
わかった上で言いますが、皆さん教育を大切にしていないんですよ。時間をかけられていない。優先順位が下なんです。教育より大切なことがあると思ってる。
だから親が教師にクレームをつけるんです、教育がなってないって。自分に後ろめたさがあるから。
後ろめたさ、かあ。
子どもに対する教育だけじゃなくて、社員教育とか後輩への指導とかもそうです。こういったものが大切だと言いながら、どの会社もそれをおろそかにしている。そんなことより目先の利益の方が大切だ、ってね。
背中を見て育て、昭和の時代から人は勝手に育ってきたんだ、って。
でも、長い目で見た時、本当にそれで利益が出続けるんですかね。
昨年と売上が同じ1億円でした、今年はその会社の利益が倍になっております。研究開発費を0円にしました。研究開発費を削ったおかげです。
本当にそれでいいのでしょうか。それはきっと10年後、痛い目を見る。
製薬会社が過去に作った誓約書特許権で利益が上がった状態だったけど、それは研究開発費を削って利益を膨らませてましたって話ですよね。
そんなことしてたらオプジーボ(編集部注:ノーベル賞を受賞した京都大学の本庶佑博士が開発に関わったガンの治療薬)は世に出なかった。
その通りです。
親に対して教育を大切にしていないって言っても普通は伝わらないと思いますけど。
子どもより社会を大切にしているってことですよね?
まあ、昔は乳母のような形で教育係って別にいましたからね。教育って、他の人にお願いできるならしてもいいんですよ。全寮制の学校とかが見直されているのはその文脈もあります。
昔は親が教育できていたけど、今はできない。時間がないから。親は自分ができないから悩んじゃう。
でも、教育が大切と言うなら、ちゃんと大切にしないと。
どれだけリソースを割くかなんですね。
そうです。社員教育も一緒。
教育や子育てって、片手間でできるってつい思っちゃいますけど、違います。何かをやめるか、工夫して効率を生み出すか、です。
教育論っていうのは転ばないことを教えるのではなく、上手な転び方を教えることですから。
上手な転び方を教える! 仰る通りですね。
上手な転び方がわかれば、そこから転ばないようにする方法を試行錯誤できるようになります。そうなれば、主体的に学ぶことが出来ますね。
今回は、「教育」をテーマにお話しいただきました。
私も混同していましたが、そもそも「教育」と「学ぶ」は主語が別なんですね。
「教育」は親や教師など、立場が上の人が子どもや部下などに対して行うもの。一方で「学ぶ」は、自分で主体的に行うものです。
思い返すと、私は以前、1歩の幅を適切に設定してもらっていた経験があります。
私は小学生のころ、スイミングスクールに通っていました。
最初に習った泳ぎ方はクロールです。ただ習い始めのころは泳ぎ方を知らない状態ですので、クロールを見せられてもその通りには泳げません。
そこで、最初にバタ足を習います。プールの縁を使ってひらすら足をバタバタ。それができたら、次はビート板を使ってバタ足をします。すると、前に進む感覚が分かってきます。そこまでできたら、ビート板をとってバタ足だけで泳ぐ練習。最後に、手の練習と息継ぎの練習をして、泳げるようになります。
まさにスイミングスクールの先生に適切な1歩を提供してもらっていたわけです。ただし、人によって成長スピードは違いますので、私に合ったステップが他の人にも合うとは限りません。
クロールが泳げるようになれば、別の泳ぎ方に興味を持ったり、もっと速く泳ごうと自分で試行錯誤したりすることができるようになります。そうなればもう自立して「学ぶ」事ができますね。
このように、適切な1歩を提供して、主体的に学べる状況を作り、子どもや部下が自立して自分の元を離れるように導くことが、教育のあるべき姿なのではないでしょうか。
今回は教育をテーマにお話しいただきましたが、別のテーマでも対談していただいています。これらの記事を読んで、新たな視点を手に入れていただければ幸いです。
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