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2017.4.13
2017.4.13
秦の始皇帝は中国史上初めて中国を統一しました。ただそれまでには様々な歴史があります。
この項では、秦が中国を統一するまでのターニングポイントをまとめています。
秦の中華統一のターニングポイント
第9代の秦の君主である「穆公(ぼくこう)」は、国家の成長には優秀な人材が不可欠であると感じました。
そのため秦の国だけでなく、他国者であっても優秀な人材を招集することによって国力を増強しました。
穆公は自ら乗り出して「百里奚(ひゃくりけい)」という優秀な人物を国外から登用し、宰相(総理大臣)に任命します。
百里奚は徹底した倹約策を導入し、国力増大の基盤を作りました。
第25代の秦の君主「孝公(こうこう)」の時代には、西域との交易の活発化によって徐々に経済力が上がっていました。
一方、王族たちも権力を保持し、秦の君主であっても思い通りの政治が出来ていませんでした。
孝公は第9代の穆公にならって他国者でも登用する姿勢を見せたため、自国での出世の糸口(コネ)がなかった「商鞅(しょうおう)」が秦にやってきます。
商鞅は、孝公の信任の元で政治改革を断行しました。
商鞅は従来の人事制度や報奨制度を一新して
という明快な成果主義を導入しました。
歴史用語でいえば「法家思想の導入」や「商鞅の改革」と呼ばれるものです。
この改革のポイントは、孝公の後継者がルール違反をした際にルールに基づいて罰したことです。
どんなに身分が高くても(後継者であっても)罰するという姿勢を貫きました。
「ダブルスタンダード」や「例外規定」を排除することにより、ルールの信頼性が担保され、秦の人間はルールを守るようになったのです。
この改革により、秦の国は官民一体となって国力増強が進みました。
始皇帝の曽祖父である第28代「昭襄王(しょうじょうおう)」の時代には、商鞅が改革した制度が安定運用されていました。
秦の国内の一兵卒から功績のあった「白起(はくき)」が大将軍に登用されます。
また他国者である「范雎(はんしょ)」が宰相に登用されて、中華統一事業が推し進められました。
昭襄王の時代は50年を超え、秦の国力は他国を凌駕する地位を占めるに至ります。
昭襄王の死後3年のうちに息子と孫がなくなり、曾孫にあたる始皇帝が13歳で即位します。
彼も他国から優秀な人材を集めて、明快な人事制度・報奨制度を維持して国内の安定を図りました。
一方、敵国に対しては不満分子を裏切らせることによって内部崩壊を起こさせます。
一丸となった秦の軍隊と内部分裂を起こした国の軍隊では、秦の勝利は疑いようがありませんでした。
こうして始皇帝が38歳の時に中国は統一されました。
秦の中華統一の過程には、現代にも応用できるものが多くあります。
前項でまとめた秦が中華統一するまでのターニングポイントでの、現代への応用術をまとめました。
創業時には何よりも優秀な人材確保が重要です。
穆公の人材登用から学ぶ優秀な人材を確保する方法は以下の3つに集約されます。
ただしこれは、経営上、共通言語が採用されていることが前提です。
共通言語とは、言葉や企業文化など、人材を受け入れるにあたって共有しておくべき事柄です。
いくら優秀な人材でも、言葉や文化などが理解できなければ使い物になりません。
誰にでもチャンスが与えられていれば、優秀な人材は自らやってきます。
人材確保の方法として、まずはチャンスを創出してあげることが大切です。
商鞅が行った改革から学ぶチャンスの創出のポイントは以下の3つです。
創業には創業なりの苦労がありますが、それを継続・拡大させるにはまた別の苦労があります。
創業した代で組織が潰れてしまっては意味がありません。
昭襄王が行った強国化政策から学ぶ組織の継続・拡大のポイントは以下の通りです。
組織が大きくなれば、それをまとめたり、他の組織と競い合ったりしなければなりません。
団結力や競争力が求められるようになります。
始皇帝は以下の2点を行うことでこれを実現しました。
始皇帝が中国を統一した後の政策と評価は以下の表のとおりです。
政策 | 結果 | 評価 |
---|---|---|
度量衡・文字・通貨等の統一 | 均一化の成功 | ◯ |
中央集権の徹底 | 均一化の成功 | ◯ |
イエスマンの増加 | × | |
始皇帝によるワンマン経営 | イエスマンの増加 | × |
後継者育たず | × | |
始皇帝の急死 | 後継者育たず | × |
征服地域にも法治主義を徹底 | ルールの複雑化 | × |
政治批判の禁止(思想の統一) | ルールの厳罰化 | × |
大土木事業の敢行 | 民衆の疲弊、不満増大 | × |
始皇帝は中華統一によって功績を残したものの、統一後の政策の評価はかんばしくありません。
結果、始皇帝の死後数年で秦は崩壊してしまいました。
始皇帝の中華統一後、秦は長くはその体制を維持できませんでした。
それは以下の3点が原因と言えます。
秦の組織マネジメントの欠点
秦は成功事例を他の地域へ強制的に適用しました。
ただ中華統一に伴う新しい事態に対応すべくルールが複雑化したため、結果的に柔軟性が失われてしまいます。
成功体験への過度な依存が原因です。
秦は新規事業として大土木事業を敢行しました。
しかしこれは民衆の疲弊を招き、民衆、つまりは従業員の不満を増大させてしまいます。
秦は統一後、始皇帝によるワンマン経営が行われました。
これによって後継者が育たず、秦は始皇帝がいなければ回らない組織となってしまいました。
秦が長期政権を築くためには、以下の3点が必要だったと考えられます。
秦が長期政権を築くために必要だった3つのポイント
秦は統一に伴って様々なルールを策定した結果、複雑なルールに縛られて柔軟性を失いました。
ルールの整備にこだわるよりもシンプルな経営理念を明確化する必要があったのです。
秦の後に中華統一を果たした漢は儒教を国教化します。儒教ベースに制度を構築して長期政権を確立しました。
儒教を国教化することで制度を儒教に沿って作ることを明確化したのです。
何をベースにしたルールなのかをはっきりさせることで組織としてまとまりました。
過去の成功体験に基づく乱雑な投資は、過剰な負債と民衆(従業員)の疲弊をうみます。
秦は大土木工事を敢行したことで民衆の不興を買いました。
常に財政状態(財務諸表)の分析などを通じて、現状を適正に把握し、現実的な目標を設定することが必要です。
漢の時代には「公共事業の削減」と「塩鉄専売法による新たな収益源の確保」が行われました。その結果、漢は長期政権となります。
適切なタイミングで適切な投資を行うことが大切なのです。
経営の誤りは起こるという前提での制度設計が必要です。
秦は始皇帝のワンマン経営によって後継者が育成されないままとなってしまいました。
漢の時代には「御史台(ぎょしだい)」という監査部門を設置します。後継者の早期明確化と育成にも励みました。
経営者が全て正しいと考えず、常に先を見据えた経営が必要なのです。
ただ400年にわたる支配の中で、漢も制度疲弊を起こして崩壊してしまいます。
その後の群雄割拠の時代が三国志の時代です。
秦は4つのターニングポイントで現代にも通じる政策を行い、中国史上初の中華統一を成し遂げました。
ただ中華統一後は失策などもあり、短命で終わってしまいます。
秦に必要だったのは「謙虚な現状分析と大胆な改革実行」です。これは現代の組織にも当てはまるものです。
例えばAppleは、ジョブズを追放後、製品ラインアップが複数に跨り過ぎていて、何をどう売ったらいいか分からない状態に陥ります。
ジョブズが舞い戻ったのち、このままでは競合(DellやSony)に勝てないことを冷静に分析して、製品ラインナップを見直して製品ラインナップの簡素化と先進的なイメージで市場を席捲し、今のAppleの礎を築きました。
Samsungは李健熙会長のもと1993年に「妻とこども以外すべて変えろ」と大号令をかけて信賞必罰の厳しい人事制度を導入し、日本から優秀な技術者を引き抜いてIT機器メーカーとして一流企業へとのし上がりました。
IBMは2005年にパソコン製造事業を中国Lenovoに売却しました。
当時はまわりから「なんで?」と思われていましたが、パソコンのコモディティ化を見据えてITソリューション事業に舵を切ったという先を見据えた判断です。
GoogleがAlphabet持株会社に各事業をぶら下げたのも、組織・事業の機動性を高めるための取り組みです。
TOYOTAも「中央集権↔グローバル分権↔商品グループでの権限集中」を常に考えながら、都度最適な組織にトランスフォームを繰り返しています。
上記した例から、先へ進もうという会社は現状に満足することなく常に変化に挑んでいるということがいえます。
そしてそこでは必ず「謙虚な現状分析と大胆な改革実行」が行われています。
秦はこれができずに短命で終わってしまいましたが、もしできていたら長期政権が築けていたかもしれません。
大きな会社・組織であれば必ず「現状分析と改革実行」を常に繰り返しています。
謙虚に冷静な視点で現状を分析し、必要なタイミングで大胆な改革を一貫して躊躇なく実行できれば、組織として変化に対応し、長く存続できるといえます。